臼井先生については、「伝説上の人」というイメージで語り伝えられることが多く、郷里を離れてから霊気療法創始までの詳しい経緯は、今も判明しておりません。
しかし、海外で伝えられている「同志社大学の教授」「キリスト教の神父」などの説は、事実ではありません。また、「臼井博士」と記述したものを目にしますが、博士号を取得しておられた事実もありません。
アメリカを本拠地として普及活動をスタートするにあたり、円滑な普及のための必要から、臼井先生の伝記や、霊気療法の歴史、後継者などについて、多くの創作が加えられました。
臼井先生の実実については、碧海亭(西方寺)で建てられた「臼井先生修徳之碑」の、碑文の内容が最も正確です(機会がありましたら、碑文の全文と、現代語訳したものをご一読ください)。
以下に、碑文の抜粋をご紹介します。
1865年(慶応元年)8月15日、岐阜県山県郡谷合村で誕生。号は蜻蛉軒(ぎょうりょうけん)
・成人後、欧米や中国に遊学した。多才で、歴史・医学・宗教研究・心理学・神仙術・易学・剣術・人相学に至るまで深く究めていた。経済的に不運で、何度も苦境に陥ったが、そのたびに「艱難汝を玉にす」という銘語に励んだ。
・大正11年3月、悟りを求めて京都郊外の鞍馬山に登り、断食修行に入った。21日目の朝に、深夜、強烈な宇宙エネルギーが頭頂に至り、その瞬間「宇宙即我・我即宇宙」の大悟を得た。
同時に、霊気による治療法を授かることになった(大正11年4月)
・天啓的に霊気治療法を授けられた使命を悟り、「自分が家族で試し治すより、多くの人に広めて幸福に役立てる共有すべきもの」と決意。大正11年4月に東京市牛込に移転し、霊気療法学会を創設。
教義・実技を指導することで全国に多数の霊気療法の人材を育成。各地で講習会を開催し、霊気の普及に尽力した。
・大正12年9月の関東大震災で多くの傷病者を癒すなど、霊気治療が注目される。14年2月に中野駅近くに土地を購入し、治療所を設立。
・名声は高く、各地からの招きに応じて講義をおこなう。求めに応じて鹿児島から、呉から、広島、熊本、関西、山陰を巡歴。
大正15年(1926年)3月9日、旅先の広島で福山に向かう途中で急逝(62歳)