霊気法の発祥から現在まで

レイキ

霊気療法は一世を風靡し、臼井先生は「手当療法中興の祖」と讃えられました。門弟は2千人を超え、また臼井先生は「超人的感覚者」として当時非常に有名でした。数千万人とも百万人人以上とも言われる臼井先生の霊気療法により救われた人々は、先生の門下生の活動により各地で語られたのだと言われ、現在は11名(内上記5名)が系統を明らかにしています。

林忠次郎(陸軍少将)(開祖門下)

臼井先生が東京・牛込区(現・新宿区)を退役後の1925(大正14)年に、臼井先生から神秘伝を受け、門弟となりました。「体の気を高めることが健康法」として、8の治療台と216人の患者を扱う病院を開き、臼井先生の霊気療法を実践されました。非常に深い感銘だったとされ、独自の理論を構築してその後の活動に生かされました(これが、手当療法実践者としての基礎となったものです)

林忠次郎門下の林宗一(林医院)(開祖門下)

「病気治療だけではなく、自然治癒力を高める方法として、月1回(5日間)の霊気合宿を行い、健康と並行して心身の調和を目指す」として臼井先生を常に敬愛され、臼井霊気法を受け継いでいます(日本霊気療法学会と呼ばれています)

林忠次郎の門下生であり、林宗一と並び立つ2人で代表的な存在が林貞夫(女性、林医院)です。林貞夫は「自然治癒力を引き出すには体と心の両面からのアプローチが必要」として、林霊気療法学会を設立し、林霊気法の継承者として活動しています。

この2人はそれぞれ1938年か1940(昭和13〜15)年に臼井先生の神秘伝を受け、霊気療法の実践者として活躍していましたが、どちらも晩年には病により、林忠次郎が亡くなったのと同様に、林宗一は1941年11月に病により亡くなりました。林貞夫もまた晩年には闘病生活の末に亡くなっています。

高田はわよ(1900〜1980)は、ハワイ生まれの日系女性です。難病のため余命わずかと言われ、1935(昭和10)年に日本へ帰国した際、ある医師から、林先生の紹介を受けました。林先生は彼女を治療し、2ヶ月後に健康を回復し8ヶ月後に完治しました。

彼女はこの体験に深く感銘し、日本での学びを終えた後、林忠次郎の神秘伝を受け、現地での霊気普及に尽力しました。帰国後は、健康を取り戻した恩義に感動していましたが、晩年には神秘伝を紹介することが多くなっていきました。

高田は、現地で看護師の資格を持つ者として働いた後、高田は林霊気療法の神秘伝を受け、現地で霊気を教えるようになります。昭和13年に再来日し、その後、再び帰米しました。

林先生が、昭和13年に病没しました。それ以降、彼女はその22名に師とし、現地にIKIが世界に広がることとなり、2名のレイキ・マスターを育て、20年を超える人々がレイキを活用するようになり、今でもその活動は続けられています。

菊池まさよは、1980年12月に死去。翌年、彼女の育てたマスターたちのうち17名が一堂に集まり、1週間を過ごしました。その年(1981年)、高田先生の孫娘であるフィリス・フルモトがレイキ・アライアンスを設立して、高田先生の後継者として役割を引き継ぎ、多くのマスターがこれに参加しました。

別の考えを持つバーバラ・レイ(文化人類学者)は、アライアンスに参加せず、1982年にアメリカン・インターナショナル・レイキアソシエーション(現在はライティアンス・テクニーク)を設立しました。こうして、高田先生のレイキの流れは、大きく2つに分かれることとなりました。アメリカでは現在、この2つの団体以外にも多くの団体が存在しています。

アメリカ以外では、カナダ、イギリス、オランダ、フランス、スペイン、オーストラリア、インド、ブラジル、アルゼンチン、チリ、シンガポール、インド、ロシア、その他の国々にも普及し、さらに日本国内にも台湾、香港、韓国などにも広がっています。

日本において、逆に上陸という形で1980年代の後半から普及し始めました。現在では、各種流派を説く団体が日本に逆輸入され、レイキ人口は約10万人と推定されます。

一部には、臼井先生の伝統霊気法は消滅したと教えていますが、臼井霊気療法学会は現在も存在しており、臼井先生以来の伝統が継続し継承されています(この事実は、書籍『癒しの現代霊気法』で紹介され、インターネットによって情報が発信されるとともに、カナダのバンクーバーにて「ジャニーズ・レイキ・ワークショップ」が開催されるなど、広く知られるようになりました)

その他に、臼井霊気療法学会そのものではないが、伝統霊気療法の流れから、「海外に出た日本の霊気」として、海外でレイキ一線を開講するスクールも、幾つか名前を上げています。

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